マッチのにおい大好きです。
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人間にとって火は重要であったが、火をおこすことは手間のかかる作業だった。 1827年にイギリスの化学者ジョン・ウォーカーが塩素酸カリウムと硫化アンチモンを頭薬とする摩擦マッチを考案した。形態的には現在のマッチとほぼ同じであったが、火付けが悪かった。
このため、1830年に、フランスのソーリアが黄燐マッチを発明した。これは頭薬をどんなものにこすりつけても発火するため普及したが、その分自然発火が起こりやすく、また黄燐がもつ毒性が問題となって、製造者の健康被害が社会問題化した。そのため、19世紀後半に黄燐マッチは禁止されてゆき、1906年、スイスのベルンで黄燐の使用禁止に関する国際会議が開かれて、黄燐使用禁止の条約が採択され、欧米各国は批准した。しかし、マッチが有力輸出商品だった日本は加盟しなかった。結局、1921年になってようやく日本は黄燐マッチの製造が禁止されたが、日本における黄燐による健康被害の実態については、不明な部分が多い。
その後、赤燐を頭薬に使用し、マッチ箱側面にヤスリ状の摩擦面をつけた赤燐マッチが登場。19世紀半ばには側面に赤燐を使用し、発火部の頭薬に塩素酸カリウムを用い、頭薬を側薬(横薬とも)にこすりつけないと発火しない安全マッチが登場した。 米国では黄燐マッチ禁止後も摩擦のみで発火するマッチの需要があり、安全マッチの頭薬の上に硫化リンを使った発火薬を塗った硫化燐マッチが今日でも用いられている。この硫化燐マッチは強い摩擦を必要とするので、軸木が安全マッチより太く長い物が用いられるのが大半である。
日本では、1875年、清水誠によりマッチの製造が開始され、中国やインドに輸出された。最盛期である20世紀初めには、スウェーデン、アメリカと並び世界三大生産国となった。このときは生産量の約80%が輸出にまわされた。日本では家内制手工業での生産が中心であったが、原料の一つである硫黄が大量安価に手に入ったので価格競争力があった。
しかしスウェーデンのマッチ製造会社が進出してきたため、零細企業が次々と廃業した。昭和になると、日本での生産量の70%はスウェーデンの影響下の会社が製造するものとなった。戦後、ライターなどの普及によりマッチ生産は減少傾向にある。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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